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益子の文化
益子には国指定文化財をはじめ、県、町の指定するものまで、多くの文化財が残っています。
国指定文化財県指定文化財町指定文化財

伝統文化
県指定文化財1234
■ 聖鬮賛(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770  所有者/円通寺
本書は「初学題学習」(全4巻)の注釈書である。初学題学習は良山の著書で、良天・良栄と相伝した秘書である。奥書に「右此十六巻不憚愚為文庫塵拂 奉納 大澤山圓通寺 住関上人住持内 袋中(花押) 本末都廿三帖也 元和九年癸亥夏日伝爾従南都贈之」とあるように、元和9年(1623)奈良から円通寺へ大沢文庫の書籍として奉納されたものである。全16冊のうち第3巻が欠本となっているので15冊しか現存しない。
■ 浄土総系図(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770  所有者/円通寺
1巻目(写真上)は、浄土宗の系図を鎮西派名越流を中心に編述したもので、表書きに「浄土惣系圖 重箱入也」とあり、奥書には「時元禄十一寅年七月晦日 良因拝写」とある。冒頭に印度、中国、日本の三国の祖師たちの教義を列記してある。源空上人(法然上人)のそれはやや詳しい。次に法然門下の上人たちを列挙してある。そしてその後に聖光上人の鎮西派を筆頭にして系図が記載されている。三祖良忠門下では礼阿がやや詳しく6人の弟子をあげ、次に道光は3人の弟子をあげている。寂恵、慈心、聖真に至ってはわずかに当人の名前だけである。それに反して良弁の門流は良慶、良山、良天と実に詳細にわたって記してあり、特に良栄の門流が最も詳細である。鎮西派の後に善恵上人、隆寛上人、成覚上人、法蓮上人、正信上人の順にそれぞれの系図が記載されている。そして最後に踊念佛の門流と法然上人の在家弟子の系譜が付記されている。この系図は、円通寺の学僧によって編述されたものを元禄11年(1698)に良因が写したものである。
 もう1巻(写真下)も浄土宗の系図ではあるが、内容は1巻目とは多少異なる。表書きに「浄土惣系圖 圓通寺不出 主良住」とあり奥書には「永正三年丙寅三月九日 融舜示之(花押)―浄土宗伝方空仰性秀」とある。寺伝によれば、この巻は江戸初期に良定が京都で入手し円通寺に寄進したものという。
■ 月形凾文書(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770  所有者/円通寺
浄土宗鎮西義名越派大沢流の教義の真髄を説いた最も重要な文書である。良栄をはじめ歴代の住持の口述筆記した秘伝書を納めたこの月形凾は、住持替の時だけ7日潔斎、3日精進の後に引き継がれるべきものであり、たとえ弟子といえどもその凾内を見ることは許されなかった。
■ 浄土鎮西義名越派代々印璽脈譜(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770  所有者/円通寺
上巻は「浄土相傅」として法然上人より良堯にいたる血脈を記し、応永18年(1411)良栄から良堯に左手と右手の朱印を押して授けたのをはじめに、天正11年(1583)良興より良賢に授けたものまで11通である。中巻は元禄9年(1696)良安が序文を記し、文政4年(1821)良範にいたるまで25通である。下巻は文政11年良猛より明治14年(1881)良頓にいたる11通の血脈を収めている。いずれも法然上人から授けられた住持までの血脈を記し、年月日と授けた住持の署名・花押、両手の朱印を押している。またこれら3巻は、元禄9年(1696)寄進された凾に納められている。
■ 瓶子(昭和35年10月11日)
所在地/益子町益子4469  所有者/西明寺
口頸部を欠いているが、上肩より上腹にかけて大きく張り球状に丸みをもっていて、下腹を絞り底部に至って外反している。上肩部に3個の印花文が4ヵ所型押しされ、灰釉が黄緑色に縞状に流れるなど古瀬戸の特徴をよく表現している。昭和23年(1948)西明寺本堂裏山の河原石を方形に囲んであった旧墓所より出土した。
■ 藍染め甕場(平成8年8月20日)
所在地/益子町城内坂1  所有者/日下田 正
建物内部の西側に梁で支えた空間を造り、土間に容積180gの常滑焼の藍甕を72個規則的に埋め、周囲を三和土と呼ばれる技法で固めている。4個の藍甕をひとつの単位とし、その中央に火床と称する穴を設け、藍の発酵建に必要な温度を保つために半年間オガクズやモミガラを燃やしている。72個の藍甕は200年間の使用にも堪え、しかも地震等による破損も見られず現在も藍の華を咲かせ続けている。
■ 風戸塚古墳(昭和29年9月7日)
所在地/益子町北中1697  所有者/萩原周矩
小貝川左岸の微高地上で、国道294号の西側にあり、頂頭部は平坦な截頭円墳である。比較的大型の円墳であるが、周溝もはっきりせずまた墳端部は削平され墳頂部も変形が著しい。また葺石等は不明瞭で埴輪等の細片も見当たらない。  主体部が未調査のため築造年代は不明であるが、古墳時代後期のものと思われる。
■ 入定塚古墳(昭和33年8月27日)
所在地/益子町大沢3518−28  所有者/円通寺
円通寺一切経塔の南西約50mに位置し、小貝川の東岸にあたり、八溝山地の一部をなす鶏足山魂の西側に立地する。小貝川の沖積地との比高差は約40mあり、樹木がなければ見晴らしのよい環境にある。昭和33年(1958)に県の史跡に指定された際には前方後円墳と考えられたが、その後の「栃木県史」には前方後方墳との記載がある。周溝や葺石、埴輪などは認められない。後方部と前方部の高さが同じであることや墳丘全体が平たく低く構えているところから、古墳時代後期の築造と思われるが、中期という説もある。
■ 小宅古墳群(昭和34年11月27日)
所在地/益子町小宅  所有者/亀岡八幡宮
国道123号の北側、亀岡八幡宮から青田地区にまたがり、小貝川の支流である小宅川の右岸丘陵上の平坦面及び南向きの緩斜面に立地する。前方後円墳6基、円墳29基、総数35基からなる古墳群で、内県指定は1号から18号墳までで(内1基はその後の調査で古墳ではないと確認)前方後円墳5基、円墳12基である。
■ 宇都宮家の墓所(昭和42年1月20日)
所在地/益子町上大羽941  所有者/益子町
朝綱は地蔵院を創建してまもなく初代(宗円)2代(宗綱)の墓を築き、自らの墓も定めてこの地を宇都宮家の菩提所とする旨を一族郎党に宣言したという。初代宗円より33代正綱まで五輪塔29基、石碑3基、墓標1基がある。
 慶長2年(1597)10月13日宇都宮家が断絶後も大羽在住の家臣たちは仕官せず墓を見守り続け、今日に至っている。